山本代表メッセージ

Dear CHAMP Members and Members to be:

皆様お元気でお過ごしでしょうか?
3月中旬から急速に暖かくなり、桜も早々に満開になりました。されどコロナ禍は沈静化するどころか、変異ウィルスの拡散も伴い、ますます感染拡大が続いています。マスク着用・手洗い・うがい、三蜜を避ける等々、個人でできることは十分実行していますよね。それでも第四波が押し寄せてきているのが現状(4/10現在)です。
日本は新型コロナCOVID-19の感染率においては、人口比でみると先進諸国間では非常に低く抑えられています。だからオリンピックも1年遅れでも開催に踏み切れると思われます。開催については賛否両論あり、聖火リレー不参加の地方都市も出てきましたが、開催実施の意義は大きいと思います。なぜなら、この1年有余、あまりにも閉塞的な暗いニュースが多いからです。

「聖火リレーのもたらすもの」
先日聖火リレーの歴史、特に日本での1964年東京オリンピックの時のテレビ放映がありました。まだまだ貧しい生活環境(都内でもゴミの山)にあった日本で国民のオリンピックに対する関心は当初とても低かったそうです。それが、聖火リレーが始まり、全国にランナーが聖火を掲げて走る内に段々とオリンピックへの国民の意識が高まったとのことです。先日、福島各地を回って出発した聖火リレーの放映を見ていて、私もその理由がわかるような気がしました。それは何だと思われますか? スポーツを通しての一体感、みんなの輪です! コロナ禍での閉塞感を打ち破り、皆がスポーツを介して世界とつながる、という希望の高揚感ではないでしょうか。

「つらい時だから」
つらい時だからこそ、私たちは楽な時には考えなかったことを考える機会を持ちます。
これまで当たり前で普通だと思っていたなんでもない日常の行動が、当たり前ではなく、実は様々な社会環境における多くの人達の労力のおかげで可能になっているのだと気づく時を与えられました。「あたり前」ということは何もない、という認識です。

「何が大切か?」
まずは命、健康、家族と人とのつながり、だと昨今強く感じます。
私は独り身ですが、姉とその家族、そして多くの友人がいます。私にとって人とのつながりは命と同じくらい大切な人生のエッセンスであり糧です。皆さまに感謝です。
コロナ禍における様々な方たちの生活維持のための「闘い」が報じられています。きっと皆さまもご覧になっていらっしゃると思います。多くのエピソードが心を動かします。今自分が置かれた環境を感謝し、前進する勇気と力を与えてくれる話が一杯です! 人間は捨てたものではない、と思わせてくれます。だから私たちはこれからもめげず、コロナ禍を克服して行けるのですね。

≪本号の特別記事≫
本号ではそのような感動的な会員の<自叙伝>を掲載(3~5頁)しています。
新潟県十日町市で屋根融雪会社を経営する傍ら、福祉活動を20年続けている樋口 功さんのお話です。樋口さんの進取の姿勢とたゆまない努力は、多大な勇気と感動を与えてくれるでしょう。
前号にも書きましたが、これからは成熟世代の貢献時代です。経験と知識(知恵)を活かして次世代に希望にあふれた社会を残すように頑張りましょう。 2030年には70才以上の人口が4人に一人となります。健康を大事にして楽しく、助け合いの社会づくりに励みましょう♡

訃報:チャンプ設立当時からチャンプの活動を支援して下さっていた上野輝彌先生が2月23日に逝去されました。上野田鶴子さんはチャンプ設立メンバーのお一人です。三人の会員が追悼文を書いて下さいました(7頁)。中村峯子さんのご主人誠さんが長い闘病生活の後に3月末に永眠されました。誠さんもチャンプ会員でした。心からご冥福をお祈りいたします。
皆様との再会を楽しみにしています。

CHAMP代表 山本儀子 Noriko Yamamoto

会員寄稿1:幸せに暮らしたい障がい者の願いを叶えるために

特定非営利活動法人支援センターあんしん
会長 樋口 功

私は毎早朝、事務所で日課作業を行った後、支援センターあんしんの関連施設を見て回りながら、それぞれの施設に必要な施策や修理箇所のチェックなどを行っています。ある朝、わがNPOグループホームの利用者さん2人と外で朝の挨拶を交わすと、「会長、そんなに暇そうにしているならワークに勤めて稼げば」とアドバイスを頂きました。嬉しかったですね。2人は働くことの大切さ、そしてワークで働けることまで理解していたからです。たとえ障がいを抱えていても幸せに暮らし続けるには、自立できる経済環境と住まいを確立して、生きがいと誇りを持つことが大切だと思っているからです。私が暇そうに見えたことは別として、これからも約170人に達した当NPOの利用者さんらが安心して暮らせるように、努めていきたいと心新たにしました。

なぜ「NPOあんしん」が生まれたのか

福祉は全くの素人だった私がこの世界に飛び込んだきっかけ、それは末娘の三女が幼少時の交通事故で重度の障がいを負い、しかも養護学校卒業後に地域には通える場が無かったことが始まりです。そのため娘は妻が自宅で付きっ切り介助。さらに末娘に加え義母介護まで必要となり、妻一人ではもう無理と半ばうつ状態になりました。それまで家のことは一切を妻に任せ、屋根融雪システム会社(㈱北越融雪)のオーナー社長として仕事一筋に没頭していた私もこの我が家の崩壊危機に、さすがにこれは何とかしなければと、初めて真正面から向き合うこととなりました。

私たち夫婦の願いは、末娘が住み慣れた地域で楽しく暮らし続けること。私が市内の今ある障がい者施設に行かせたらどうかと問うと、妻は「重度障がい者の娘は働けないから作業所では無理、機能訓練の仕組みのない施設では一日テレビ生活となり、心身機能の低下となるのでそんな所に通わせたくない」ときっぱり拒否。養護学校のPTAの役員をしていた妻は、在学中に福祉の先進地を視察し、重度障がい者に適した施設が当地域には無く、全国でもまだ数少ないことを知っていました。

娘を預けられる施設が無いなら、自分で創るしかない。障がい者福祉の現状を知れば知るほどそんな思いが高まり、最終的にNPO法人の設立につながったのです。障がい者福祉の国のあり方自体が大きく変わる変革期だったことも、設立への追い風となりました。障がいのある子の親にとり最大の不安は、自分が死んだ後の我が子の事。これまで親は子を施設に入所させることができれば、「これで安心して死ねる」という時代でした。しかし施設の多くは山の上など一般社会から隔絶された場所にあり、変化のない限定された塀の中で暮らし続ける施設が多く、たとえ障がいがあっても住み慣れた地域を離れることなく、様々な交流や人生経験を重ねながら、泣いたり笑ったりの人間らしい暮らしをさせたい。そんなノーマライゼーション・共生の理念がようやく日本の福祉政策にも反映されつつあり、時代は大きく変わってきたのです。

NPOあんしんケアセンター・ハーモニーB班の皆さん

平成15年に始まった自立支援法は、行政主導の「措置制度」から、障がい者自身が福祉サービスを自由に選べる時代へと大きく舵が切られました。また、行政改革で「民間にできることは民間に」と、NPO法人にも障がい者福祉サービス参入ができるようになり民間参入が急増、既存の社会福祉法人を含む事業者間の競争が生じてサービス向上につながり、福祉サービス利用者にとってはいい環境が整いつつあったのです。しかし、人口の少ない地方ではサービス提供事業所の数が不足して競争原理は働かず、制度はあるがサービスは無いという矛盾がありました。採算を考えると事業者も簡単には手を出せないのが現状であり。しかも当時は偏見も根強く、自宅奥で一生を終える障がい者も少なくなく、何とかしなければと決意したのです。

あんしんトイレットペーパーの誕生

「よし、やろう」と思ったところが利用者さんは我が子一人、「とんだ間抜け」と言わざるえませ
ん。養護学校の同窓生はすでにす通所施設に通っていて誰もいなかったのです。今思えばあたりまえですが、福祉の事は何も知らない、養護学校時代は妻に任せきりの男がいきなり通所サービスの看板を上げたところで要は相手にされなかったわけです。その足で市役所の福祉課に相談に行きましたが「通所していない障がい者はいないんじゃないか」とあきれ顔をされてしまいました。何もわからない人間がただ娘の事一念で起業する無謀な挑戦は、今考えればいい加減と思われたに違いありません。しかし、「一念巌も穿つ」とはよく言ったものです。結局はこの一念が
あったからこそこれまで何も知らない福祉の世界で20年間も続けてこれたものと思いました。

立派な事業理念もないままに、視察した北海道伊達市の事業モデルを参考にしてスタートしたNPOあんしんは、本業の資材置き場兼工場の片隅に4畳半の部屋を仕切って始めました。利用者は娘とその時たまたま養護学校卒業後、家に引きこもっていた男性の2名だけでした。三女は福祉大学を出たての長女が見て、男性は仕事が少しできるので本業を退職した元工場長が本業の部品作りを一緒にする作業所でした。利用者が5名になると県の「無認可作業所」として年間100万円の補助が出ることになっていましたから、あんしん作業所はいわば「無認可もないダブル無認可作業所だね」と笑っていました。あんしん作業所を始める時には大勢の方々の助言をいただいていましたが、その中のお一人が北信圏域障害者生活支援センターの福岡寿さんです。福岡さんは今まで日本で行われていた施設偏重の障がい者福祉を「町中で暮らす障がい者支援」に代える活動に先鞭をつけた実践者の一人で、家内が講演会で知っていた方です。私も「これからの障がい者は隔離することなく地域で暮らすことが大事」と思っていましたので、福岡さんのお話は本当に参考になりました。私の「利用者を増やすにはどうしたらいいでしょうか」という問いに、その福岡さんは「目の前の一人の利用者さんを大事に支援していれば必ず利用者さんは増えて行くから心配しないでいいですよ」とアドバイスをくれました。その時は半信半疑の私でしたがその半年後には利用者も5名となり、ようやく晴れて「無認可作業所」として名乗りを上げることになりました。その時、福祉事業は「一人ひとりの利用者さんにしっかり寄り添うことを大切にする」をあんしんの柱にしようと思いました。

おかげでその後も利用者さんも順調に増えて開所1年後には10名を超えるまでになってきました。そうなると、本業の部品作りだけでは仕事が足りなくなり、かといって工賃をろくに支払えない内職程度の仕事では、障がい者に自立を目指すだけの工賃を払えないなどど悶々としていた日々が続いていたある日、我が家のトイレでペーパー(TP)が無くなり棚から出した時、「売上は障がい者の賃金に充てられます」の印刷が目に留まりました。「エツ!これは」と、家内に聞くと「何今になって言ってるの、これは流山の義姉さんが毎年贈ってくれるペーパーですよ」と「だからあなたはいい加減なんですよ」といつものキツイ一言。灯台下暗しとはよく言ったもので、関心がなければ見えるものも見えないという典型的な事例を地で行った私ですが、実姉が近所の福祉作業所で買い求めたトイレットペーパーをズーと頂きながら上の空で聞いていたアホな自分にようやく気づいた訳です。これだ!と気づいた後は早い自分です。早速姉に電話して今までのお礼を言い、流山の福祉作業所に見学に行きました。流山の福祉作業所は12~3人の利用者さんが働いている同じような小規模作業所であったのも幸いでした。あんしんもその頃は小規模作業所でしたので、「これなら出来そうだ」とすぐにTP工場立ち上げを決意できました。

中越大震災で存亡危機も全国からの支援で飛躍へ

NPOあんしんワークでTP包装作業

あんしんのトイレットペーパーはていねいに三角折を加えてあります。これは、お客様から最初の巻き端が剥がしにくいとの声を受けて行ったことになっていますが、実はそうでなく、仕事が少なくて手が余っていたから始めたことなのです。当時は作っても在庫が増えるばかりでなかなか売れませんでした。そこで手の空いた人が何もしない訳にはいかないからと始めたのが三角折なのです。いまでこそ年間110万個の生産をできるまでになりましたが、いまさら三角折はやめる訳にいかず今でも全出荷品をあんしんオリジナルとして手作業で三角折を続けています。TP販売が軌道に乗りはじめた頃の平成16年10月、中越大震災に襲われました。工場が大規模半壊となり機械も損壊してしまいました。このまま冬を迎えれば3メートルを超える積雪で建物崩壊の危険もあり、あんしんに通うことが生きがいになっている利用者さんやご家族からも不安の声が届き、身を切られるような切ない毎日でした。製造再開はもう無理かと諦めかけたその時、奇跡が起きました。新しモノが好きな私は地震1か月前より楽天のブログを始めていたところに地震が来たのです。当時はブログも珍しく一日1・2件しかアクセスはなかったのが地震直後からいきなり数百のアクセスがあり、驚きました。その結果、全国紙の紙面でも相次いで取り上げられることとなり、全国から多くの支援が寄せられたのです。

その時にはCHAMPの皆様からも多大なご支援をいただき本当にありがとうございました。おかげさまでなんとか再建を果たすことができました。しかも、ある製紙メーカーが損傷機より生産能力10倍アップの半自動中古機を無償提供して下さり、何よりも全国からあんしんTPの注文が次々と入るようになったのです。災い転じて福と成す。それは現在利用者さん60人体制のワークセンターを支える礎となり、今日の全国平均を大きく上回る工賃レベルにつながっているものと思います。

全国にあんしんモデルを400か所作りみんな元気にしたい

今、私には夢があります。全国の障がい者就労支援施設が当社のTP事業をモデルにTP工場を作り障がい者の自立に道をつけるという夢です。日本ではトイレットペーパーが年間500億個から600億個販売されていると言われています。そのうちの1%の5億個を障がい者施設で生産・販売されると、あんしんモデルが400か所以上できる計算です。全国に市の数だけでも700以上ありますから、仕事に困っている各市の就労支援施設にTP工場を作り地域の個人はもちろん学校や公共施設・企業が地域のTP工場を応援する仕組みを作りたいのです。TP工場は地震など災害時に生活必需品であるTPのストックで役に立ちます。昨年2月のコロナパニックのようにトイレットペーパー騒動はまたいつ起きるかわかりません。また、かさばるTPの配達ボランティアで高齢者の社会参加にもなり、地域に障がい者の理解が広がり、支え合いの土壌が生まれます。私たちが今実践しているTP工場を中心にした優しいまちづくりは、地域的にも厳しい条件下の豪雪・過疎田舎町で生まれた支援スタイルです。この「あんしんモデル」を成功させて全国に広めて、日本を明るく元気にしてゆければと考えています。そのためのノウハウは喜んで提供したいと思います。

会員消息 自粛生活よもやま話(その4)

コロナ禍のピンチをチャンスに 木下 義雄

写真は文章とは関係ありませんが屋久島でのカヌー体験です

私は、埼玉県内の中堅不動産会社を退職後、東京都内に起業して3年が経過しました。
昨年春からのコロナ禍での中で、不動産を仲介した体験事例を2件紹介させて頂きます。
1件目のお客様は、さいたま市に自宅をお持ちの資産家の知人ですが、65歳で予備校講師を定年退職し、東京郊外にある心理学専門大学に入学されました。ところがコロナ感染での緊急事態宣言が発令されたことで、自宅から都心経由のラッシュ時通学に感染の不安を持ちました。そこで、修学の2年間だけ近くにアパートを借り、午前中から授業のある時は蜜となる時間帯を避けて通学のため前泊する目的で物件を探しましたが、65歳単身(奥様は自宅近隣に勤務)では、コロナ禍では貸してくれるところがなかったとのことで、不動産業者のリスク対応だったのでしょう。そのために、大学最寄り駅のワンルームマンションを現金で購入することとなった訳です。2年間の就学を終えればそのまま賃貸物件として活用できるためには、駅徒歩6分以内も選択条件に入っていました。
もう一つの事例は、保有するビルの飲食業テナントがコロナ禍で廃業退室し、別に購入して頂く予定で進んでいた投資物件の売買が契約直前で中止になった事例です。理由は、テナントの退室による家賃収入の減収ではなく、解約時の敷金(2千万円)の返済原資が急遽必要になり、売買契約手付金が準備できなったことでした。今年になって資金調達も目途が立ち、結果的にはかなりの値引きで他の投資ビルを購入して頂くことができました。
昨年4月から今年3月にかけて、私のビジネス面ではコロナに振り回された1年でしたが、家族の健康面も含め公私ともども順調に過ごせていることを実感し感謝しております。
海外では、コロナ感染の終息の見通しが立たず不確定材料ばかりですが、日本国内では、ワクチン接種でコロナ終息の目途が立ち、オリンピックも開催し、今年中には経済復興することを強く意識し祈念することで、「ピンチはチャンス」と前向きに捉えています。

名工の石仏寄託奮闘記 新井将史

一昨年夏、チャンプ山の会で木村隊長の元、信州伊那谷を訪れましたが、その際私共の田舎の墓地に鎮座しておりました石仏を覚えておいででしょうか? 200年以上前に信州高遠地方から全国に散った石工たちが活躍し、各地に石仏を残しましたが、最近までそれほど注目を浴びてきませんでした。しかし、最高峰とされる守谷貞治という石工が残した作品が近年脚光を浴び、私共のところにある石仏もその一つであるということが分かってきました。

野晒しにしないで公的機関に寄贈したらという働きかけ受けてきましたが、 先祖の意思を考えるとそうもいかず、処置に困っておりました。悩んでいた家内が現地野鳥の会の部長の吉田さん(一昨年夏の山の会で我々に付き添いいろいろ説明してくれた背の高い男性)に相談すると、高遠にある歴史博物館に寄託(所有権はそのままにして公的機関に預ける制度)するという可能性を探ってみたらいいという提案をいただきました。
館長とやりとりをしたところ快く寄託を受け入れてくれましたが、寄託の場合、博物館までの搬送は私共の責任ということがわかりました。搬送費は下手をすると100万円位かかると脅かされましたが、最近知り合った元高校教師(社会科)で、作業道具を積んだ軽トラを駆っていろいろな作業を請け負っている下島さんが、私がやりましょうと言ってくれました。費用は実費(石仏を移送する際に入れる簡単な木箱等)で結構です、というありがたい話、見たところそんなに重そうではありませんでしたが、よく見てみると台石が相当地面に潜っており、250kgから300kgぐらいありそうということが分かってきました。下島さんも少し焦りましたが、私のあらゆる機材(滑車、小さいフォークリフトなど)、能力、経験を総動員して頑張りますと言っていただき、2月25日ほぼ一日かけて墓地から博物館まで移送しました。3月1日の地元長野新聞に載った記事を添付します。

移送前日の私共の菩提寺の和尚さんの読経の写真、当日夜の慰労会の写真も添付します。テーブルの左奥は吉田さん、手前が下島さん、右側手前は私の同級生で写真家の杉全(すぎまた)です。下島さんは皆から社会科の先生とは思えない働きぶりなどと言われていましたが、飲むほどにマルクス講義になり、硬軟取り混ぜた話題で盛り上がりました。
当日、墓地には伊那市の偉い人達が来て私共の作業を見守っておりましたが、比較的若い人以外は一切助ける様子もなく、我々4人(下島さん、吉田さん、私、家内)の苦労の作業をじっと見ていました。若い学芸員二人が来ましたが、女性で、写真・動画を撮るのが目的らしく、これも何の手助けになりませんでした。友人の杉全は昨秋サービスエリアの車止めにつまづき腰の骨を折り、年末に退院、今回が初めてのちゃんとした外出でした。なんとか3日間の行程をこなしましたが、最後は痛みとしびれに悩まされました。

 

 

追悼:上野 輝彌 先生

遺影

長年、チャンプの会員として活動された上野輝彌さんが、2月23日、間質性肺炎のため亡くなられました。享年90歳でした。葬儀告別式は3月1日、日本福音ルーテル三鷹教会で行われました。3人の方から追悼文を寄せていただきました。

教会での25年 藤井智子

告別式

輝彌先生と私の出会いは、今から25年前になります。諸事情から、私は三鷹ルーテル教会に転入、教会を訪ねること、変わること、教会の門は敷居が高いと聞いています。私も同じ心境にあったこと、憶えています。当時、役員でした上野先生に暖かく迎えて頂きました。そして、今日までの25年間は田鶴子夫人共々、公私に渡り、チャンプの機会も招いて頂いて、有意義な時を沢山有難うございました。
先生の大切なメダカの稚魚は、大きなガラス鉢の中で孵化され、ある時、5才の孫のお土産に、孫は大喜びに、一生懸命育てるにも、全部死なせて悲しむ顔、顔、思い出は尽きません。先生の偉大なご人格は分かってましても、普段の変わらぬ穏やかで、静かなお姿は、誰からも親しまれ、皆様との会話を楽しまれるご様子でした。先生のご専門の分野は広く、日本と世界の架け橋となる魚の研究に、シーラカンスの解剖、次々と残されたご成果や、学会等の発展にも尽力された事、専門書も数多く出版されて、魚の癌についても伺いました。教会の子供達には動物の歯の化石も配られ、又、水族館にも案内、大きな思い出を残されました。
晩年を迎えた先生は、ご夫人の運転で日曜礼拝に、礼拝後の交わりにも出席、時には大学内の散歩を楽しみに、コロナ禍にあっては出来なくなって残念なご様子でした。先生の話されます言葉の中には、「僕は、何時も、神様の御心のままに」とご信仰の深さが伺われました。時折り、田鶴子さんと電話の時、何時もとお変わりなく、食事を良く召し上がり、週2回のデイケアで楽しまれ「守られてよ!」と。
そんな中、急な容体の変化に入院も出来なく、家に戻られたと伺い、翌日訪ねた時は、しっかり会話もされ「先生、又美味しいお食事に行きましょう」「僕は美味しいもの大好きです」と。お別れし、一週間後、夫人と香織さんの介護に見守られる中、旅立たれました。心よりご冥福をお祈り申しあげます。
教会での最後は礼拝で、終りの祈り、一段と響く先生の祈り、大きな声「アーメン」でした。3月1日、教会の家族葬に、山本会長、宮原ご夫妻共々で、お見送りに参列させて頂きました。日毎に、先生の懐かしさが深く残ります。先生の魂の平安と、残されたご家族への深い慰めをお祈りいたします。

先生の思い出  宮尾賢

コーラス発表会

上野輝彌先生は魚類学を専攻された学者で、2009年10月、当時の天皇(現上皇)が古代魚シーラカンスの解剖を見学された際には、すぐお傍で立ち会われたこともあります。このような高い学識に富んだ先生でしたが、チャンプのいろいろな活動でご一緒した時はまことに親しみやすい好々爺という印象を受けました。
チャンプの温泉同好会の旅行で偶々、先生と先生の義弟に当たる田中牧師と同室になったことがあります。私が先生はいつもお元気そうですが、健康の秘訣は何ですかと伺いました。「よく食べて、よく寝ることですよ。人間ドックや健康診断は受けたことはありません。自分がおかしいと感じたら、その時に医者に診てもらうことにしています」、これが先生のお答えでした。事実、先生はアルコールは一切受け付けない体質のようでしたが、大変な健啖家でいらっしゃいました。
社会人になって以来、ずっと企業利益の追及のみで過ごしてきた私にとって、チャンプを通じて、全く異なるアカデミアの世界で生涯を通された上野先生と交流ができたことはまことに有難い経験でした。生前に先生からいただいた暖かいご教導に改めて感謝の意を表するとともに、心よりご冥福をお祈り申し上げます。合掌

「お魚博士」を偲んで 松村正道

男子厨房に入るの会

チャンプの会には、その道の達人が多数おられるが、輝彌先生はその中でも、ひときはとびぬけた「お魚博士」でおられた。特に生きた化石「シーラカンス」の研究では、国立科学博物館古生物研究室長として、シーラカンスの解剖を担当され、多くの論文を著され、魚類→両生類→人類への進化を明らかにしようと奮闘されていたご様子が、著書などに残されている。また普通のお魚の真の姿を社会に伝えようと、お魚を暖かいユニークな眼で観察され、「マグロとさわら、一生泳ぎ続ける宿命」など、人間社会と対比させて、魚の生態を面白おかしく人に伝えるお仕事をなされていました。
そんな中で私と輝彌先生の一番の思い出は、チャンプ「男子厨房に入る会」で、先生に「寒ブリ」の解剖(お料理)をお願いしたこと。シーラカンス初め多くのお魚を解剖してきた輝彌先生とって、寒ブリを三枚におろすなどはいともたやすいこと、わざわざ築地市場まで行かれて、見事な寒ブリ2匹を購入され、キッチンで包丁さばきも鮮やかに、おいしい「ブリ刺し」をつくっていただきました。
そんな輝彌先生にも研究者として気がかリなことが一つあります。それはシーラカンスを通して「背推動物の上陸、人類起源の謎」にどこまでせまれるか。輝彌先生はシーラカンスが初めて発見された1938年から100年後、2038年頃には研究が進んで、人類起源の謎がある程度解明されるのではないかと、予測されていました。輝彌先生も2038年まで生きながらえて、その結果を見届けたかったとお思いますが、果たせなかったその情報を、チャンプのどなたかがそちらへ行かれた時に、最新情報をお届けしたいと思います。
輝彌先生その時までそちらでゆっくりとお待ちください。

会員寄稿2:ビタミンCの大量摂取で新型コロナを乗り切ろう

健康と栄養の会
原田規義

コロナ禍は依然として収束していませんし、ワクチンが私たちに届くまでにはまだ時間がかかりそうです。コロナ禍を乗り切るためには当面自主防衛に努めなければなりませんが、そのための容易で有効な手段がビタミンC(錠剤)の大量摂取なのです。      ビタミンCがインフルエンザや肺炎の予防・症状軽減に有効であることは知られていましたが、新型コロナに対しても効果があるという以下のような報告があります。

  • 上海政府が高濃度ビタミンCの点滴療法で新型コロナを治療することを公式に推奨すると発表しました(2020年3月3日)。成人の場合投与量は症状によりますが、1日あたり4g~16gです。
  • 去年の春頃、チャンプ会員でスペイン在住の画家大矢邦昭氏から、バルセロナ大学の女医さんが「新型コロナの予防にはビタミンCを毎日1g服用し、罹ったかなと思った時には3g服用するのが有効だ」と実証報告していることが紹介されました。
  • 一般社団法人日本生活習慣病予防協会では「新型コロナ対策としてのビタミンC摂取」として、免疫機能の保持のためには1日1g~2g、症状が出た場合は1g~4gの服用を推奨しています。
  • 米国のライナス・ポーリング博士(ノーベル化学賞受賞者)は30分毎に1gずつのビタミンCを数回飲めば大抵の風邪は3時間位で収まってしまうことを「さらば、風邪薬」という著書の中で述べています。(注:直接新型コロナに言及したものではありません)。

日本の食事摂取基準ではビタミンCの必要推奨量は1日0.1gとなっていますが、上記報告のように新型コロナ対策としてはその10倍から40倍の大量摂取が有効であると考えられます。ご存じのように、ビタミンCは一度に大量に飲んでも害はありませんが余った分は尿などで外部に排出されてしまいます。その対策がポーリング博士が推奨している定量連続摂取なのです。30分または1時間ごとに1gのビタミンC錠剤を連続して服用すれば体内の濃度が常に保たれて無駄なく効果が発揮されるのです。

ビタミンCの錠剤(サプリメント)はいろいろありドラッグストアで入手できますが、ひとつの候補として岩城製薬の「ビタミンC錠500」(写真)を挙げておきます。1錠0.5gの錠剤380錠入りで約2700円、新宿の龍生堂などで入手できます。

日本における理論物理学者であり分子栄養学の開祖である三石巌先生や生田哲先生(薬学博士)もビタミンCの大量摂取が風邪を防ぐし、ガンや認知症の対策にもなる等、その効果が誠に多方面にわたることを明らかにしています。ビタミンCの大量摂取で元気に活躍している高齢者は私の周りにも極めて多いのです。
ではなぜコロナウイルスに効くかというと、このビタミンCの摂取によって細胞(例えば咽喉などの粘膜)の中でインターフェロンという糖タンパクがつくられ、それがウイルスの増殖を抑える為だと説明されています。

チャンプ会員である皆様のご家庭でもビタミンCの大量摂取(毎日1~3g)を毎日実践されることを、強く推奨したいと思います。胃腸の弱い方は食後に服用されるのがいいでしょう。例えば朝食後2錠(1g)、夕食後2錠などです。

なお、会員の皆様には参考図書として次の書籍を一読されるようお勧めします。
「ビタミンCの大量摂取が風邪を防ぎ、がんに効く」生田哲(薬学博士)、講談社α新書¥838
(なお、ビタミンCは医薬品ではなく、その効用は医学的に公認されたものではないことを付記します)

活動会報告

新型コロナの感染が依然として収まらず、大部分の活動会は活動の中止を余儀なくされていますが、いくつかは以下のようにオンライン会議方式で実施されています。

1.英語を共に学ぶ会
毎月第4土曜日にZOOMで例会を継続中。(幹事:高橋嗣雄)

2.健康と栄養を考える会
毎月2~4回、30分のZOOMで健康相談を中心に開催。(幹事:原田規義)

以下は現在休止中です。
3.ゴルフ愛好会、4.スピリチュアル懇談会、5.東京探訪の会、6.山の会、
7.コーラスを楽しむ会、8.社会貢献ボランティア会、9.日本文化を語る会
10.海外を見てみる会、11,チャンプハウスⅡを考える会、12.ベビーサイン教室
13.温泉同好会、14.スケッチ散策会(関西)
なお、「投資クラブ」は3月末日をもって解散・終了となりました。

編集後記

コロナ禍が続く中、また春がめぐってきました。お花見もままなりませんが、近隣を回っていると時々ハッとするような花に出会うことがあります。表紙の写真はそんな花のひとつですが、町田市小野路という地区の民家の庭のゲンペイモモ(源平桃)の木です。ハナモモの仲間で江戸時代に白花と紅花が混ざって咲くように品種改良されたようです。こんなに立派なゲンペイモモは初めて見たので見とれてしまいました。
日本でも4月12日(月)からやっとワクチンの接種が開始されましたが、輸入頼みですから行き渡るのがかなり先になってしまうのでしょう。日本がこんなワクチン後進国だったとは、世界に注目されてしまった女性差別発言や女性の社会進出率の低さなども合わせて社会変革の必要がありそうです。
チャンプの活動の大部分が中断していますが希望を捨てず、ビタミン Cを飲んで!今後に備えましょう。
(中林 記)